コラム&トピック

突然、事件現場となってしまった自宅への想い
―世田谷殺人事件現場自宅の取り壊し見送りから考える

会員・匿名希望



「事故物件」悪意と揶揄の対象として
 当然のことながら、自宅に立ち寄る知人もいなくなり、「不幸な家」「不吉な家」として忌み嫌われ、相場の半分ぐらいで手放さざるをえなかったと嘆く遺族もいる。事件が起きるその時まで、明るい笑い声に満ち、食卓を囲み、家族団欒が当たり前の「普通の家」だったが故に、まさに天国から地獄へと変わった自身の運命を信じられるはずがなく、その後長い年月を経ても事実と向き合えず、心を病む遺族は多い。

 犯人が生きている限り、被害者を忘れさせないために自宅を離れるべきではない、運命に負けてはいけないという意見もある。お金がないからどこにも引っ越すことができない、という遺族もいるであろう。長い年月の間に事件への関心、記憶が薄れ、静かにひっそりと暮らせる日が来るかもしれない。そうした声を聴きつつも、追い詰められていた私は何かに導かれるように、すぐに新たな家を探し始めていた。

 「もう家は売ったの?」と親戚、友人から聞かれる度に、「売るつもりは無い」と答えると、皆一様に「信じられない」という表情になる。「事故物件になったのだから、早く処分するのがあなたのためよ」という同情の言葉に隠された、他人の不幸に対する悪意と揶揄が鋭く心に突き刺さった。もともと両親が買った小さな家を引継ぎ、家族の成長とともに建て替えた家である。両親の苦労を思い出すと、その家に「事故物件」という烙印をつけたまま放り出すことなどできるはずがない。

新たな住人に恵まれて
 三回忌を終えていよいよ新居が決まり、そろそろ引越しの準備を始めたとき、地方に住む学生時代の友人が、三人いる子供たちの東京の大学進学のために家を貸してほしいとの連絡があった。友人にも経済的な事情があったのだろう、私は喜んで住んでもらうことにした。子供たちには事件のことは知らせていない。
 今は三人とも大学を卒業し社会人となったが、未婚の子供たちはその家から通勤し、そして定年になった友人も再就職のため上京し、子供たちと共にひとつ屋根の下で暮らしている。毎日温かな明かりが灯り、家族の笑い声が漏れ、夕飯の匂いが窓から漂う。「家」も「私」もその家族に救われたのである。

 周囲の関りが希薄な都会だからこそ、与えられた奇跡といえよう。新たな住人が住んで十数年が過ぎたが、その間何も不幸な出来事もなく、誰一人病気・事故に遭うこともなかった。処分していたら「不幸」を家のせいにして、生涯悔やんでいただろう。友人家族が「家」の無辜を証明し、私たち家族の心を慰めてくれたのである。




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