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被害者から見た一事不再理と法の原則

石川(インターネット管理・メディアサポート)

目次
法の不遡及と一事不再理
 人がつくる社会における「罪と罰」は、人の手によって定められたものである。
 その効力がどこまで及ぶかの線引きもまた、人の手によって定められる。

 日本国の憲法39条は「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない」と定めている。
 これは『法の不遡及の原則』と、『一事不再理』を規定する条文である。

 民主主義社会における罪状と刑罰は、何を罪として、その罪に対してどのような刑を課すかを国民の代表者で組織される国会で定め、その法律は施行と同時に効力を発揮することになる。原則として法令施行後の出来事に対してのみその効力が及ぶものであり、過去の出来事には適用されない。それが事後法の禁止であり、遡及処罰を禁ずる原則である。

 どのような行為が罪となるか、国民があらかじめ知ることができなければ、自由な国家、自由な社会は成立しない。法の不遡及は近代自由主義社会における大原則なのだ。

 一方で憲法39条には「又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない」とも記されている。こちらは一事不再理という、一度裁判になり判決が確定した場合、同一の事件については再び公訴されないとする原則である。再び公訴が提起されたときには審理は行われずに免訴されることが刑事訴訟法で定められている。

 これを犯罪被害者等としての立場から見ると、捜査の不十分などにより無罪判決が出て後に有罪が明らかになった場合はどうなるのかと考えてしまう。一度無罪となれば、有罪とわかっていても公訴権が消滅してしまう。たとえ過去に無罪判決が出た事件の被告人が、自分が真犯人であると自白しても再度罪に問われることはない。被害者としては、この「一事不再理」の原則にはどうしても理不尽さを感じてしまうのだ。

冤罪と比べて
 冤罪により被告人が量刑を受けることはあってはならないことだが、神ならざる人が裁く以上は過ちを防ぎきれない。冤罪は刑事裁判においては完全には防ぎきれない問題である。そのため冤罪には再審の道が用意されている。

冤罪には過ちを正す用意がある一方で、間違いで無罪とされた場合にはその道が存在しないのはどうしてなのか。「疑わしきは罰せず」や「百人の罪人を放免するとも一人の無辜の民を刑するなかれ」といった法格言の意味は理解できるが、それが再審への道すら閉ざしてしまうのはなぜなのだろう。

 被害者の立場からすれば無罪判決というものは、犯人も存在せず、さらに真犯人もわからずに無念のみが残る状況となるのも事実であり、さらに無罪とされた犯人が後に有罪であるとわかっても一事不再理の原則により罪を問うことすらかなわないとなれば、本当に救いようがない。

 憲法においては「すべての国民は法の下に平等」と定められているが、被害者等としてはその言葉に虚しさすら覚えている。日本の司法においては、刑事裁判では起訴されればめったに無罪判決は出ないとされているが、逆に考えれば起訴するか否かの段階で有罪・無罪が決定されてしまっているわけであり、一体裁判とは何のために存在してのかすら、わからなくなってくる。

犯罪の線引きと一事不再理
 一事不再理の原則は、検挙されても重い罪で処罰されない方法の一つとしてミステリー小説やサスペンスドラマなどで法的題材として扱われている。一度「過失致死罪」などで確定判決を受けていれば後に「殺人罪」に値するような行為が発覚しても、罪に問われることを免れることができるからだ。

 物語の世界の中での出来事であれば、あくまでフィクションとして楽しむこともできるのであろうが、犯罪被害に自分自身や親しい人が巻き込まれた場合には、法の原則というものが他人事ではなくなってしまう。

 身内が事件に巻き込まれたとき、その事件がどんな事件であり、犯人に対してどんな罪と罰が与えられるのかは、自然に決まるわけではなく刑事上の手続きの中で線引きされる。どのような事件として捜査がされるのかも、そこで決まってくる。

 犯人が検挙されて、事件の真相が捜査や裁判の中ではっきりとしてくれれば良いが、未解決事件となるとさらに問題が重なる。検察も無罪判決が確定するような内容での起訴は控えてしまうために、リスクを取らずにより簡単な罪名で通してしまう。そして警察もそれで捜査を行う。未解決事件になると、ここで公訴時効の問題が発生してくる。刑事事件における時効は、その量刑とバランスするように時効の線引きがなされるものだから、事件が迷宮入りしてしまうと、事件の全容が明らかになっていないにもかかわらず最低限の期間で時効を迎えてしまうのだ。

未解決になっている池袋駅構内立教大生殺人事件では、当初「過失致死罪」として捜査が行われていたが、遺族たちが事件の真相がわからないのに罪名が決まっているというこの問題に気が付き、自ら声を上げて、時効を迎える直前で罪名変更による時効延長を勝ち取った。昨年(2019年)の、罪名変更により時効が延長された埼玉県熊谷市での小学4年生男児の死亡ひき逃げ事件も、構図は類似している。被害者の遺族が自ら声を上げることで時効の延長が実現された。法が人により定められたものである限りは、人為によりその線引きを変える道筋もある。

法に対して核心の論争を
 池袋駅構内立教大生殺人事件の遺族は、2010年に凶悪事件の時効撤廃が実現した後、自分の家族の事件に対して時効撤廃が適応されることを「法の不遡及の原則」に触れてしまうことなどを理由として、異例とも言われるが、自ら捜査継続の停止を要望した。

 この要望の背景には「被害者感情で法の原則を歪めてしまうこと」があった。とはいえ、それは法の不遡及という原則を無批判に丸呑みにして墨守しようとしていたのではなく、図らずとも人が定めた罪と罰に向き合わなければならなくなった家族達が熟考した末の結果だったのである。

 日本の社会は、法に対しての核心の議論を避ける傾向にあることが否めない。法と犯罪と刑事手続の問題は、社会秩序の根本的な構成要素である。犯罪被害者や家族という当事者が、追い込まれた中でその身を犠牲にしながら声を上げることで変革を成し遂げることはあった。それは、それまで当たり前のものとして受け入れていた常識、法の原則を、当事者となることで改めて考えざるを得なくなった結果である。しかしながら、犯罪の被害に巻き込まれた当事者にならなくとも、もっと多くの人々に真剣に社会の在り方について考えを巡らせて欲しいと思う。

 法の原則と罪刑法定主義の存在意義、一事不再理と再審への道筋、さらには時効の線引きのような公訴権の範囲や警察・検察といった組織の問題、そしてそれぞれの置かれている立場によって違ってくるであろう価値判断の基準。考えれば考えるほどに矛盾や折り合いの難しい課題が湧き出てくるが、それらとしっかりと向き合うことが良い社会をつくる第一歩なのだから。

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