コラム・会員の声

突然、事件現場となってしまった自宅への想い

−世田谷殺人事件現場自宅の取り壊し見送りから考える−

会員・匿名希望

 平成12年12月に東京都世田谷区上祖師谷の宮沢みきおさん=当時(44)=方で一家4人が殺害された事件で、現場の土地を所有する都が遺族に対し、今月25日としていた現場住宅の取り壊し期限を延長する意向を伝えた。都東部公園緑地事務所は今後、具体的な延長期間などを検討する。

 同事務所によると、今月21日に、建物を所有する遺族と面会した際に、遺族側が取り壊し期限の延長を希望。事務所側も「早急に建物を取り壊す必要性は認められない」と判断したという。

 同事務所によると、警視庁は事件後、現場の建物を取り壊さないよう遺族に要請してきたが、証拠保全が完了したとして、昨年12月26日付で要請の解除を通知。都と遺族らの取り決めで通知から30日以内に取り壊すことになっていた。

 現場の土地は12年3月、都が隣接の都立祖師谷公園の拡張のために買収し、一家は引っ越しの猶予期間中だった同12月に殺害された。

(2020年1月24日産経ニュースより)

目次
未解決事件の象徴として
 当会は長年、殺人事件の公訴時効の廃止を要望し活動していたが、2010年4月、法曹界の反対が強かったにもかかわらず、政治により一気に実現した背景に、上記の「世田谷一家殺人事件」遺族(宮沢さんのご両親)の存在は極めて大きかったと思う。
 愛する家族を突然失った悲劇に苦しんだ遺族として、「犯人」の顔を見ることなく旅立たれた宮沢氏の無念を想うと、今どこかで平然と日常を過ごしている「凶悪犯人」を早く逮捕して欲しいと願う。今も事件は続いているという事実と、必ず逮捕されるという希望を忘れないために、未解決事件の象徴として住宅はこの20年間現場に存在し続けたのであろう。
 当初の公園拡張の実現による地域の利益を考えると、今回の土地を所有する東京都からの取り壊し打診は非難されるものではない。また現在管理されているご遺族・ご親族としても、将来の展望が見えぬ中で大きな責任を負うことへの不安は計り知れない。しかし事件現場としての「家」は、犯人に対して<逃がさない、許さない、忘れない>というご遺族の怒り、警察の執念を伝え続けた存在であり、未解決である限り、ご遺族に撤去の判断ができないのは当然のことである。

家族とともに「家」も失う被害者
 殺人事件の半数以上は親族間であり、「面識あり」を含むと9割近く、関係者が加害者であると考えられる(下記資料参照)。最新の統計が無いのが残念だが、「殺人」においては大きな変動はないものと思われる。
 世田谷事件の犯人が顔見知りかどうかは不明であるが、私たちは残りわずか1割の「面識なし」被害者遺族を中心に活動してきた。その中でも「自宅」が現場となった被害者はさらに極めて少数であり、私はその遺族の一人である。
 「殺人事件被害者」というだけで周囲から孤立し、長年住み慣れた自宅を離れざるを得ない被害者遺族は多い。ましてや「自宅」が現場となり、家族を失った遺族で住み続けている例を身近では知り得ない。そして私も新築間もない我が家を離れた苦しい経験がある。犯人からの賠償など全く無い中で、遺族にとって「自宅」を失うことは、経済的な損失において最も大きな被害である場合が多い。それに伴って、家族の思い出、隣近所との交流、小学校・中学校の友人など、それまでの当たり前の生活を全て失ってしまう。

「事故物件」悪意と揶揄の対象として
 当然のことながら、自宅に立ち寄る知人もいなくなり、「不幸な家」「不吉な家」として忌み嫌われ、相場の半分ぐらいで手放さざるをえなかったと嘆く遺族もいる。事件が起きるその時まで、明るい笑い声に満ち、食卓を囲み、家族団欒が当たり前の「普通の家」だったが故に、まさに天国から地獄へと変わった自身の運命を信じられるはずがなく、その後長い年月を経ても事実と向き合えず、心を病む遺族は多い。

 犯人が生きている限り、被害者を忘れさせないために自宅を離れるべきではない、運命に負けてはいけないという意見もある。お金がないからどこにも引っ越すことができない、という遺族もいるであろう。長い年月の間に事件への関心、記憶が薄れ、静かにひっそりと暮らせる日が来るかもしれない。そうした声を聴きつつも、追い詰められていた私は何かに導かれるように、すぐに新たな家を探し始めていた。

 「もう家は売ったの?」と親戚、友人から聞かれる度に、「売るつもりは無い」と答えると、皆一様に「信じられない」という表情になる。「事故物件になったのだから、早く処分するのがあなたのためよ」という同情の言葉に隠された、他人の不幸に対する悪意と揶揄が鋭く心に突き刺さった。もともと両親が買った小さな家を引継ぎ、家族の成長とともに建て替えた家である。両親の苦労を思い出すと、その家に「事故物件」という烙印をつけたまま放り出すことなどできるはずがない。

新たな住人に恵まれて
 三回忌を終えていよいよ新居が決まり、そろそろ引越しの準備を始めたとき、地方に住む学生時代の友人が、三人いる子供たちの東京の大学進学のために家を貸してほしいとの連絡があった。友人にも経済的な事情があったのだろう、私は喜んで住んでもらうことにした。子供たちには事件のことは知らせていない。
 今は三人とも大学を卒業し社会人となったが、未婚の子供たちはその家から通勤し、そして定年になった友人も再就職のため上京し、子供たちと共にひとつ屋根の下で暮らしている。毎日温かな明かりが灯り、家族の笑い声が漏れ、夕飯の匂いが窓から漂う。「家」も「私」もその家族に救われたのである。

 周囲の関りが希薄な都会だからこそ、与えられた奇跡といえよう。新たな住人が住んで十数年が過ぎたが、その間何も不幸な出来事もなく、誰一人病気・事故に遭うこともなかった。処分していたら「不幸」を家のせいにして、生涯悔やんでいただろう。友人家族が「家」の無辜を証明し、私たち家族の心を慰めてくれたのである。

 しかしその家は近い将来、私の手で片付けるつもりである。私の子供の代に託すべきではないし、遺族である私の命とともに、その寿命を全うさせて全てを終わらせたい。「宮沢邸」も遺族・親族が遠からず、次の世代に先送りすることなく決断する時が来るであろう。犯人逮捕を信じつつ、その時が来るまで見守り続けよう。
HOME, SWEET HOME

「こがねの城を 経めぐるとも、 わが家にまさる すまいはなし。
 したしきおもわ 浮かぶところ、 わが家のほかに あるべきかは。
 ああ、わが家よ、みめぐみつきぬ 愛の園よ。」(讃美歌 第二編147番)

 面白おかしく「事故物件に住む!」といった企画を目にすることがある。そこには「損か得か」という視点のみであり、究極の選択の対象として揶揄されるのが傷ましい。どんな家も「SWEET HOME」になるべく夢を背負って生まれてきたのである。
 私が育った地方農村では何代も続く古い家は珍しくないが、家屋の資産評価が低く、またマンションが中心となる都会ではとくに、住まいは<一代一戸>になることが多い。事件に絡む住宅が中古物件として残ることは難しく、その土地だけが新たな所有者に引き継がれていくのだろう。

 長年「被害者の回復」について何が必要なのかと考え続けてきた。それは私自身の回復・立直りの歩みであり、様々な葛藤、後悔の中で、「時間は元には戻らない」という真実をどう受け入れていくかという歩みである。宮沢さん遺族にとっても、今はまだその時から時間は止まったままであろう。しかしその想いを関係者が尊重し、見守ってもらえる環境にあることは幸いである。
 そう、やはり誰かに手助けしてもらわなければ、被害者遺族が立ち上がることは困難である。経済的な支援のみ強調されることが多いが、少しずつ日常を取り戻す過程、きっかけは様々だと思う。私は残りの人生が見えてきた今、亡くなった家族の供養を心の支えとし、新たな家族が与えられ、信用する友人に出会い、日々小さな楽しみを見つけようと努めている。
 生きていくこと自体がつらいと苦しんでいる被害者遺族へ、その時計が動き出すために、私たちが通ってきた道を伝えていければと願うばかりである。
 

会員(匿名・東京都)

 
【お詫び】
 当会では事件・被害者について、原則実名表記を主張していますが、今回は記事中の住宅に現在居住中の家族のプライバシーと安全を配慮し、筆者に係る事件、被害者氏名を明記しなかったことをお詫びします。   
前のページへ戻る